彦根文化遺産

彦根足軽屋敷の街並

足軽組
屋敷

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足軽「組」の結束-足軽屋敷

彦根には、江戸時代以来の足軽屋敷 の町割りが静かな住宅街として、そこ に住む人々と共生している。今も足軽 の末裔の人々が比較的多く居住してお り、江戸時代の足軽「組」を継承する 単位としてまとまり、各種の会合や集 会、清掃や防火防災活動、その他の自治活動が熱心に行われている。江戸時 代以来の狭い街路であるため、特に防 火防災活動は熱心であり、組を単位と する定期的な訓練とともに、各家の玄 関には必ず赤い防火用バケツを配備し ている。一方で狭い路地は車の往来が 少なく、人々の会話が飛び交う絶好の 社交の場であり、路地を遊び場とする 子どもたちも多い。

足軽組屋敷の公開

足軽組屋敷の公開

彦根藩の足軽

彦根藩の足軽

彦根城下の足軽屋敷は、城下町のもっとも外側に、城下を取り囲むように屋 敷を連ね、彦根城と城下町を守備する役割を担っていた。彦根藩の足軽は、慶長11年(1606)に中藪組6組と善利組12組が設置されたのを皮切りに、元和3年(1617)の加増に伴う足軽増強により善利組8組を設置。同様に寛永6年(1629)の足軽増強では切通組・大雲寺組・中組がそれぞれ設置された。このように彦根藩の足軽組屋敷は総体として江戸時代の早い段階に整えられた。中でも善利組の規模は大きく、その屋敷地は第4郭の南、外堀と善利川の間の東西約750メートル、南北約300メートルを占めた。

image081幕末期には戸数およそ700を数えた。間口5間(約9メー トル)、奥行10間(約18メートル)ほどの敷地に、木戸門と塀に囲まれた小さ いけれど武家屋敷の体裁を整えた建物が連綿と続いた。建物内は、土間をへて 玄関・台所・納戸・座敷の4部屋が「田」の字形に連なり、8畳の座敷には床 があり庭を望むことができた。藩によっては「足軽長屋」も多い中、彦根藩の 足軽屋敷は庭付き一戸建て。小さいな がらも武家屋敷としての体裁を整えた 構えであった。このような特徴的な佇 まいが、今日でも数を減らしながら、 1間半の狭い道筋に続いている。

 

足軽は「足軽く疾走する歩卒」の意。戦国時代の戦の主力であった集団戦では重要な位置を占めた。彦根藩では、足軽1120人について鉄砲を扱う鉄砲組と弓を扱う弓組に分け、さらに鉄砲50人組を1組、同40人組を5組、同30人組を25組、弓20人組を6組の合計37組に編成していた。この足軽組を預かったのが、1000石~300石取の「物頭」であった。彼らは戦時には「足軽大将」として足軽組の指揮をとる立場にあり、平時においても足軽を束ねる手代を介して訓練・組織化して実践に備えさせた。

足軽の屋敷は、組の単位がそのまま居住地にも反映していた。道筋は南から 北へ1丁目~15丁目に区分され、道筋の両側に組を単位として集住したのであ る。組の人数が少ない場合は、複数の組が1つの丁目に集住した。この丁目の 呼称は昭和44年に廃され、大きく芹橋1丁目と2丁目の行政単位に分けられる ことになったが、現在でも実体としては旧丁目を単位とする自治活動が健在で ある。そこには江戸時代以来の「組」として訓練・組織化されてきた足軽組の 結束が生きている。冒頭の「組」のまとまりと熱心な自治活動は、このような 歴史的な背景があって顕在化したものである。

旧善利組足軽屋敷の家屋は、実際に調査を実施すると基本的な間取りは同じ であっても、木戸門や塀のすぐ内側に主屋が接するタイプと前庭を設けるタイ プ、平入りと妻入りなど、彦根藩の作事方がその時々に官舎として建てており 一様ではない。ただ、それらの歴史的建造物が、今日なお東西約750メートル 南北約300メートルの間、通りの左右に整然と家並みを形成しており、そこで 営まれる人々の活動とともに、良好な市街地の環境を呈している。

<関連リンク>
彦根辻番所の会 http://tsuji-bansyo.seesaa.net/
彦根「まちかど資料館」 http://hikone-takigai.seesaa.net/