彦根文化遺産

彦根足軽屋敷の街並

中山道

宿場町

10

 

高宮宿と高宮まつり・高宮布

高宮の町は、夜になると常夜燈に火が点り、早朝の街道には打ち水が施される。中山道の宿場として古くから多くの人々が往来し、旅人をもてなしてきた人々の思いが引き継がれた町である。街道筋には常夜燈のほか道標・一里塚・松並木・高札場跡・本陣跡・脇本陣跡・旅籠跡など、街道や宿場に特徴的な施設や歴史的建造物が、今も数多く姿を留めている。

高宮宿は江戸から64番目の宿である。古代犬上郡10郷の1つ、高宮郷の地である。中世には荘園が成立し東山道筋に市も立った。その後、高宮氏の高宮城下としての歴史を歩むが、天正元年(1573)の小谷城戦で高宮城は炎上し、高宮氏は一族離散してしまう。高宮氏の菩提寺高宮寺には、高宮氏歴代の墓所が現存し、重要文化財木造伝切阿坐像など時宗ゆかりの豊かな文化財を今に伝えている。

高宮が宿場町として再生するのは、江戸時代初頭からのことである。高宮宿は、宿の石高2923石6斗2升で美濃の鵜沼宿に次いで高い。高宮宿には本陣1軒、脇本陣2軒があった。本陣・脇本陣の詳細な絵図が伝来し、本陣の表門が残っている。高宮宿のほぼ中央に、多賀大社への正式な参詣道(表参道)である高宮道(多賀道)が延びている。入口に は石造の巨大な鳥居が建っている。県指定となっている高さ11mの多賀大社一の鳥居である。

高宮宿 多賀大社一の鳥居

高宮宿 多賀大社一の鳥居

高宮の中央付近に位置する高宮神社は、高宮の17すべての町民が氏子として崇敬し祭事に関わっている。創建は鎌倉時代頃と想定されており、古くは十禅師宮(じゅうぜんじのみや)または山王権現と称したことから、日吉社領であったと考えられている。明治5年には郷社となり今日に至っている。

この高宮神社は春と秋に大祭が催される。中でも春祭りは「高宮太鼓祭り」とも呼ばれる大掛かりな祭りである。宵宮をへて本祭りの当日は、「渡御(とぎょ)」と呼ばれる巡行が催される。本町の神輿を先頭に、17町の町旗・鉦・太鼓が続き、行列の最後を締めくくるのは騎馬の神官や氏子総代たちである。太鼓は胴回りがおよそ6mもある大太鼓を台棒で荷う。総勢500人を越える大行列であり、太鼓と鉦の音に人々の歓声が混在して、祭りを盛り上げる。こうした大祭の起源は、明治3年の洪水で資料が流失してしまったため明瞭ではないが、以後の記録にすでに現在の原形が示されており、古くに遡る大祭であったと想定される。

高宮神社の南には、築後250年余を経過しているという元庄屋の屋敷がある。黒壁に複雑な屋根組みの落ち着いた佇まいが、歴史の風格を感じさせる。この屋敷周辺には、袖壁に卯建を上げたまちなみや掘割など、かつての宿場の景観が良く残っており、提灯屋や造酒屋などの伝統産業に従事する家も古くからの佇まいを今に伝えている。

今年、高宮地域文化センターで催された「高宮布まつり」では、高宮布の製法や作品を紹介し、製織道具などの展示のほか、機織りの実演や体験が行われた。高宮布は今では見ることが少なくなったが、近年、再び注目が集まるようになってきている。

高宮布は、高宮周辺で生産された上質の麻布であり、「高宮上布」とも通称された。古く室町時代にその記録が確認され、室町時代以降は将軍や諸大名の贈答品として珍重されたものであり、井伊家が彦根の地に封じられて以降も、年々の進物に用いている。近郷で織られた高宮布は、いったん高宮に集荷されて売り捌かれた。城下町の武士や町人の内職としても 織られていたものであり、裃・袴や暖簾などに用いられていたようである。

「近江名所図会」に描かれた高宮布の店

高宮宿 多賀大社一の鳥居

 

鳥居本宿と合羽・赤玉神教丸

旧鳥居本宿の街道筋中央には、道中合羽形の看板を軒先に掲げた家が存在する。かつての名産「鳥居本合羽」の看板である。鳥居本合羽は馬場弥五郎なる人物が四国伝来の合羽製作技術を学んで商いを始めたのが起源と伝えているが、やがて柿渋を塗布するなどの技術改良を重ね、鳥居本宿が天候の荒れやすい木曽街道の入口にあたるという地の利もあって、道中合羽としての需要を拡大していった。文化文政期(1804~30)には15軒を数えたという。

鳥居本合羽の看板

鳥居本合羽の看板

旧鳥居本宿の街道が大きく鉤手に曲がる一角にある赤玉神教丸本舗(彦根市指定文化財)は、もうひとつの名産「赤玉神教丸」の製造・販売を現在も続ける大店舗である。赤玉神教丸は、下痢・腹痛・食傷などに効果のある妙薬で、多賀大社の神教によって調合したため、その名があるという。今も彦根辺りでは、各薬局で赤玉神教丸が売られ、薬箱に赤玉神教丸を忍ばせている家庭も多い。万治元年(1658)頃の創業と伝え、店舗販売を主に、各地の薬屋と特約して取次販売なども行った。最盛期には製造職人・販売人・番頭などを合わせると80人余に達したようであり、その店頭販売の賑わいは『近江名所図絵』などにも描かれるほどであった。現存する彦根市指定の有形文化財(建造物)は、宝暦年間(1751~64)の建立と伝え、幕末の和宮降嫁や明治天皇の北国巡幸の折には小休所に当てられた。

赤玉神教丸本舗

赤玉神教丸本舗

鳥居本宿は、近世以前は佐和山城の城下町の縁辺部に位置していたが、江戸時代に入って間もなく、小野宿に代わって宿駅の機能を持つことになった。百々村、西法寺村、鳥居本村、上矢倉村の4村が1つになって宿場を構成しているため、今も極めて細長いまちなみとなっている。本陣1軒、脇本陣2軒は高宮宿と同じだか、規模はそれほど大きくはない。ただ、江戸時代以来の歴史的建造物は良好に残り、宿場の面影を良く伝えている。

<関連リンク>