彦根文化遺産

彦根足軽屋敷の街並

大名庭園

大名庭園

 

松原下屋敷

松原下屋敷(お浜御殿)は、11代当主井伊直中により文化7年(1810) ころに琵琶湖畔に造営された下屋敷です。彦根藩のもう1つの下屋敷である槻御殿(玄宮楽々園)とは立地や趣も異なり、公式性を離れた内向きの、庭園を主体とした下屋敷でした。

松原下屋敷古写真

松原下屋敷古写真


 
松原下屋敷の庭園は、優れた造園技術を駆使し、琵琶湖の水や山の自然を活かして造られています。琵琶湖の水位と連動して汀線(波打ちぎわ)が変化する汐入形式の手法を用いた池を中心に、西側は洲浜の広がる穏やかな景観とし、東側は桑白(庭に築いた小さな山)が折り重なる深遠な趣となっています。13代当主井伊直弼の時代には、「がけ之御茶屋」「南台之御茶屋」「通天御茶屋」「菊之御茶屋」の4棟の茶室も要所に設けられていたようですが、現存していません。
 
明治4年の廃藩置県後、彦根における井伊家の居宅はこの屋敷が用いられ、明治22年には玄関棟や大広間棟が増設されました。庭園については、昭和57年度に奈良国立文化財研究所(現在の奈良文化財研究所)により調査が実施され、彦根市教育委員会でも平成12年度に庭園や歴史的建造物の調査、植生調査、そして測量調査などを行いました。これらの調査により、松原下屋敷の庭園が玄宮楽々園とは様相の異なる大名庭園であり、近世の大名文化を理解する上で欠くことのできない貴重な文化財であることが明らかになりました。そこで平成12年度には彦根市指定文化財(名勝)に指定し、さらに翌平成13年度には国の名勝指定を受けました。また、平成14年度からは彦根市が管理団体となり庭園の維持管理を図るとともに、公有地化に努めています。
今後、公有地化に目処が立った段階で、国の補助と指導を得ながら、庭園や歴史的建造物の保存修理を実施し、公開していく予定です。旧彦根藩の松原下屋敷は、彦根市の大切な文化財であり、また新たな観光資源としても期待されます。
 
昭和時代(戦前)の松原下屋敷絵図

昭和時代(戦前)の松原下屋敷絵図

※汐入形式:海水を利用した汐入式の池をもっ日大名庭園としては、浜離宮恩賜庭園(東京都)や養翠園(和歌山県)などが知られていますが、松原下屋敷の庭園は淡水(琵琶湖の水)を利用した汐入形式の手法を用いた、わが国唯の庭園です。
 
 

玄宮園

玄宮園は、隣接する楽々園とともに江戸時代には「槻(けやき)御殿」と呼ばれた彦根藩の下屋敷です。槻御殿は、延宝5年(1677)、4代井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝え、昭和26年には国の名勝に指定されています。現在は、槻御殿の庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と称しています。
玄宮園の名は、中国の宮廷に付属した庭園を「玄宮」と言ったことから命名されたと考えられます。庭園を見渡す好所に建てられた数寄屋建築である「八景亭」の名から、一説に中国の瀟湘八景または近江八景を取り入れて作庭されたとも伝えますが、江戸時代に描かれた「玄宮園図」に八景亭の名はなく「臨池閣」と呼んでいたようです。そのほか玄宮園図には「鳳翔台」「魚躍沼」「龍臥橋」「鶴鳴渚」「春風埒」「観月峯」「薩埵林」「飛梁渓」「涵虚亭」の十景が付箋によって示されており、当時「玄宮園十勝」と呼ばれていたことが確認されています。
玄宮園は、広大な池水を中心に池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。池の水は、城下町の湧水の豊富な外堀からサイフォンの原理により導水して供給し、小島の岩聞から水を落として滝に仕立てていました。池には船小屋があり、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともありました。また、松原内湖に面した庭園の北側には水門が聞き、大洞の弁財天堂や菩提寺の清涼寺・龍潭寺への参詣あるいは松原のもう1つの下屋敷であるお浜御殿への御成りには、そこから御座船で出向いたようです。

玄宮園図

玄宮園図(彦根城博物館蔵)


 
 
<関連リンク>
庭師集団 いろは組 http://irohagumi.com/